2006年05月15日

「智を愛さない人間」がつけた「安全」というtagをはずそう!

核信仰は救われない久保寺昭子名誉教授の正体には、「安全神話の宣伝」内容が書かれているだけではなく、

>安全性に自信があるのなら、なぜ、まともに話し合いをしないのだ!

で締めくくられているので、いい機会なので書いておこう。



わたしを取り巻くさまざまな人たちの繋がりで、スペイン人の神父さんと出会い、それまでは知ることがなかった研究分野に進むこととなり、さらに、この神父さんに Godfaherになってもらいカトリック信者になってしまった。そう、わたしは、既に「信者」。

誤解を恐れず言ってしまうと、ラモス瑠偉にそっくりなヒゲが似合うおじさん。あの方は、わたしにとっての「神」ではない感じ90%。わたしにとっての「神」は、私の中に存在する(と、今のところ感じる)でも、その存在は「あの方」ではないなぁという感じ。こういうとんでもない信者なので、「別の意味」で誰かがわたしを「○○信者」と呼んだとしても、どうということもない。

修士課程1年目の必修基礎科目に、この神父さんである教授が担当する講義があった。同級生に中国からの留学生が一人いたが、新学期の最初の講義のとき名簿を見てすぐ、中国籍の学生がいることを理解した神父さんであるこの教授は、すぐに、次のような質問をした。

「英語の、philosphopy、智を愛するという意味ね、もとは、Greek、ギリシャ語ね。これを漢字で『哲学』と書くのは知っているが、日本人に何度聞いても、『哲』の意味がよくわからない。中国語では何という意味?」

中国人留学生が即答して曰く、

「『哲』は、『口』と『折』からできていますね。口を折る、というのは英語の"debate"と同じ意味です。智を愛する人たちは、debateが好きですね。ギリシャ人もね。だから、philosphopyを『哲学』というのは、とても、いい言い方です。」

この神父さんである教授は、学歴としては、神学(哲学を含む)と言語学の2つ博士号を持っている。しかしながら、わたしが尊敬する理由は言うまでもなく、博士号2つという学歴では全然なく、柔軟で広い心と聖職者・研究者として真摯な態度で、わたしたちに接する人だからだ。

カトリック信者になるには、1年程度、「公教要理」(あるいはカトリック要理」)というキリスト教についての「お勉強」をしなければならない。
この「お勉強」のときの雑談で、この神父さんの子供の頃の話もよく聞いた。

この神父さんの家庭は、決して裕福ではないが敬虔なカトリック信者の家庭だった。男4人、女1人のきょうだいのうち、長男を除いてすべてが聖職者になっている。この神父さんは次男。きょうだいんの中でもこの神父さんは、子供の頃から学校の成績がよかったので、町の教会の神父さんの薦めで15歳で、わたしの出身大学の母体の修道会へ入ることになった。このとき、この神父さんのお母さんは、大泣きしたそうだ。なぜなら、町の教会で修業をしながら神父になるなら、この教会にミサに行けば、息子の顔くらいは見ることができるが、(優秀だったばっかりに)遠くの修道会(ローマ)に入るなんて、一生息子に会えない、と。事実、アメリカで博士号を取るまで、お母さんに会いに帰ることは許されなかったそうだ。

修道会時代も語学の成績も抜群であっただろういうことは、この神父さんが日本へ派遣されたことから解る。この神父さんが、最初に日本に派遣されたのは、1960年。当時は、住んでいた修道会から、外国人神父対象のこの修道会が運営している日本語研修センターまでの電車賃が往復20円の時代。毎朝修道会から支給される20円で切符を買って電車に乗り、研修センターへ行き、1日15時間集中的に日本語の勉強をしていたそうだ。3ヶ月後、無事研修を終えると、次の日からすぐ、わたしの出身大学で日本人の学生にスペイン語を教えたそうだ。

自分の生まれ育った国で、ちょっと勉強ができるという程度の理由だけで研究者になってしまえるのとは、聖職者になるという部分を差し引いても、やはり、厳しさが違う。




この国では、異なった考えを持った人たちと議論を重ね、その過程でお互いを理解し合うということをしない。その代わりにやることといったら、異なった考えを持つ人たちに「自分たちとは違う」ということを強調するためだけの目的で、例えば、「○○信仰」とか「○○信者」「○○主義」というtagをつける。tagをつけさえすれば、自分たちと「違う人」が、このtagですぐに判別できるから自分たちは安泰。そう信じて疑わない。なぜ、こういう心理構造が生まれたのかを考えるき、現時点での結論は、明治時代以降の天皇を頂点に置いた「富国強兵」達成のための「全体主義」が、島国という環境と相まって成功した結果であるということ。地続きで、さまざまな人たちが行き交うヨーロッパでは、極端なことを言えば、目の前にいる人間が敵か見方かわからない。だから、それを知るために、まず、言葉を交わさなければ生き延びることができない。このような状況下では、自分と相手の「違い」は、当然のこととして受け入れられる。その上で、理解しあうために話し合う。これは、「みんな一緒だよねぇ、仲間だよねぇ、仲間がいっぱいいれば何をやったって怖くないよねぇ」的な、全体主義保持手段として「あの人たちは違うよ、変な人たちなんだよ」というtagをつけるこの国流のやり方とは、それこそ、「大違い」だ。

久保寺昭子東京理科大学名誉教授の言う「安全」も、自分が安泰いられるためのtag=お題目にすぎず、研究者として自信、言い換えれば、研究に対する真摯な態度に裏打ちされた首尾一貫した論理性は、どこを読んでも見つからない。この程度の研究者が言う、「安全」を拠所にして核燃料再処理工場を稼働させるなんて、前にも書いたが、国家的犯罪。この程度の研究者が貼り付けた「安全」という tagなんかすぐに取ってしまおう。そのためには、わたしたちが、「智を愛する人間」だということを、機会あるごとに示していくことが有効な手段。
posted by yoshikoskz at 19:29| パリ ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 言語 | 更新情報をチェックする
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