2009年01月18日

222/494350

今日(1月17日)のセンター入試の英語のリスニング試験でも、ICプレーヤーの不具合による追試者が出た。
この、ICプレーヤーによる英語リスニング試験が導入された2006年の
以下の日記↓
http://lulu2004blog.seesaa.net/article/12051913.html
でも、この問題を、このBlogで取り上げたけれど、今年も同じ不具合発生。
以下の記事↓
「センター試験 英語リスニング、249人が再試験」
以下引用;
----------
導入4年目の英語リスニングでは、過去3回と同様、ICプレーヤーの音声が聞き取りにくいなどのトラブルが各地で相次いだ。大学入試センターによると、253人が再試験対象となり、うち249人が再試験を受けた。249人中222人は機器の不具合を訴え、残りは体調不良などが原因。

(中略)
49万4350人(受験率90.9%)が受験した英語リスニングは、783会場中180会場で再試験を行った。

----------
引用終わり



494350個のICプレーヤーのうち222個が不具合。この程度の「不良品」は、電子機器製造メーカー的な観点に立てばこの程度のICプレーヤーの「不良品」が出ることは、許容範囲で片付けてよいかもしれない。
しかし、大学入試センターは、当然、電子機器製造メーカーではなく、受験生に対してできる限り公平に受験の機会を与えなければならないという義務を持つ組織なのだから、再試験という措置だけではなく、もう少し、受験生の不公平の改善を考えるべきなのではないだろか。
posted by yoshikoskz at 00:14| パリ ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 言語 | 更新情報をチェックする

2008年05月25日

小学校3年生からの英語教育を実現したとしてもこの国は国際社会から孤立する

5月22日に友人のmixiの日記経由で、長野の聖火リレーで逮捕された台湾在住のチベット人、タシィ・ツウリンさんのインタビューが掲載されたBlogを知って、すぐ、読んだ。
http://kukkuri.jpn.org/boyakikukkuri2/log/eid491.html
そして、このBlog記事の一部を引用しながら、以下のコメントを書いた。

勝谷誠彦曰く「彼のあの美しいチベット語、あれは亡命した後、ダライ・ラマがお作りになった難民学校で、あれを覚えたんです。あれが僕は民族っていうもんだと思うです」

明治初期から、日本では、「国語外国語化」論争が繰り広げられてきて、それが、現在の、公立小学校の総合学習の英語導入に繋がっている訳ですが、わたしの感覚の中にある日本語への、結構強い違和感は、日本語という言語そのものではなく、「国語外国語化論」の支持者たちへの違和感なんだと、改めて思いました。

このコメントに対して、友人は、同じことがstreamで聞ける以下のサイト
「5/21(水)コラムの花道」
http://tbs954.cocolog-nifty.com/st/2008/05/521_91b6.html
も教えてくれたので、昨日まで夜に繰り返しこの放送を聞いていた。



そして今朝、メールチェックをしたら(MacBookを使うようになってから、MAILのRSS機能を使って、よく読むBlogの新着記事をメールで受け取れるように設定している)『科学ニュースあらかると』の最新記事
「英語教育の強化、小3から「必修」 … 止めてください」
http://www.mypress.jp/v2_writers/beep/story/?story_id=1738292

を、「国語外国語化」という時代錯誤な母語(日本語)軽視策を、「未だに」着々と進めるこの国から逃げ出したい気持ちを抑えながら、繰り返し読む。

そして、最後の段落の「どうしても小さな子どもに英語を覚えさせたいというのなら、彼等が大好きなゲームを英語にすれば多分理解が早いです」という文を読みながら、思い出していた。小学校6年生のときから、ラジオから流れる好きなRockの曲をカセットテープに録音しては、何度も何度も短い再生を繰り返して、その歌詞の英語の「音」を書き取っては、わからないところは、兄に聞いたりしてから、自分でも英和辞典を引いて、知らない単語を覚えていったことを。
でも、それ以前の、小学校に入学するかしないかの時期に、父親が小学生向けの国語辞典と用字用語辞典を買い与えてくれて、小学1年の終わりには、この辞書では飽き足らず、大人が使う国語辞典を使っていた記憶がある。

今では、英語で読み書き話すことは、そこそこできるようになったし、フランス語、ドイツ語、スペイン語、イタリア語なら、辞書を引けば、なんとかなるけれど、これができるようになったのは、実は、母語の日本語に関しても、英語やフランス語を勉強するのと同じように、わからない単語、熟語に関しては、ほぼ毎日辞書を引くし、こうして日本語でBlog記事を書くし、日本語を話すときにも、自分にぴったりとする日本語にいつも敏感でありたいと思いながら話すように心がけているためだ。

少し専門的な話になるが、日本人の母語話者の子供が、母語の習得を完了する平均年齢は、8歳〜10歳前後という説が今も有力で、これは、英語母語話者の子供の母語習得平均が6歳〜8歳であるよりは、遅い。つまり、日本語の習得は、母語話者にとっても難しい。だから、母語の習得が中途半端な時期に英語を学ぶことは、子供の言語発達に関して、有害であっても、有益なこことは全くない。

自国の言語を自ら軽視する一種の卑屈さを含んだ「国際コンプレックス」が、この国の外交の不味さにも現れているし、このようなことを続ければ、この国の政府の思惑とは裏腹に、この国が大好きな「国際社会」から、完全に孤立する日に、ますます近づくだけだということに、早く気がついてほしい。


posted by yoshikoskz at 16:59| パリ ☀| Comment(2) | TrackBack(0) | 言語 | 更新情報をチェックする

2007年01月05日

Do you hate Thursday?

下の写真は、ウチの1階の掲示板に昨年末から貼られている、住んでいる地域のお役所発行の、年末年始のゴミ収集日の「お知らせ」の一部。すべて日英語の2か国語語表記になっているのだけれども。。。。


thursday.jpg

貼りだされた翌日に見てすぐ、

あれっ??

と、気が付き、

些細なことだけど公共的な張り紙なんだから、このくらいのことは、checkしなきゃ、間違っていたら、日本語と英語で書く意味があんまりないじゃん!

と呟いてしまった。

しかし。。。

中学生のときから今まで、一体これで何度目だろう、"Thursday"に関する間違いに遭遇するのは。。。。。

この単語を正確に聞き取れない、正確に発音できない、綴りを間違う、何曜日なのか思い出せない、という人は意外に多い。一番大きな理由は、日本語には、"Thursday"の[th] の音がないから。言語は、音と意味が結びついてできているが、その最小単位が単語。聞き取れない単語は、発音できない。発音できなければ記憶に留まりにくいので、綴りを間違い易い。

多分、この「お知らせ」作成者は、見直しをしたのだろうと思う。しかし、このような理由のために、間違いに気が付くことができなかったのではないだろうか。



英語が苦手という人の中には、この[th] ように日本語には無い音が苦手で、結果、英語がまるまる全部嫌いになってしまったという人が結構いる。こういった話を聞く度に、

もったいないなぁ。。。。

と、思ってしまう。

日本語の母音と子音の数は、日本語意外の言語に比べて少ない。ということは、日本語にはない言語音はたーーーくさんあるということ。だから、この日本語とは違った音があることをわかることや、違う音だから、どうやったら上手く発音できるようになるかな、と自分なりに工夫して練習することからして外国語を学ぶことの楽しみなのに、と、感じるからだ。

わたしの場合、英語に限らないが、日本語に完全に無い音を発音したり書いたりするのは、むしろ得意。難しさを感じるのは、英語だったら、"ear"と"year"のように、確かに、yearの[y]の音は現代の日本語にはないけれど、"ear"の [i]と比べると、その違いが発音するときの舌の位置の違いで生じるような音の区別。

もしもこの国で、こんなに嫌われ避けられていることを、Thursdayさんが知ったら、きっと、すごく悲しむと思うのよね。
(書くまでもないけれど、"FRI"と同じく三文字で略すなら"THU")
posted by yoshikoskz at 20:06| パリ ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 言語 | 更新情報をチェックする

2006年05月18日

『きたりもん』という差別語に立ち向かった祖母、こういう差別語がなくならない限り、この国が核大国へ進むことは止められない。

2003年10月15日の日記で一度書いている、父方の祖父が山梨県の勝沼で開業したのは昭和初期。わたしの母は、開業1年後に生まれている。

その母の記憶に鮮明に残っている、ある「事件」がある。母が記憶しているのだから、多分、この「事件」が起こったのは、祖父が開業してから10年程度経過した頃、母が小学校3年生くらいの頃だと思うのだが。。。。



東京のように地方出身者が集まってできた街を別にすれば、その他の地域には、必ず、「地元意識」というものがある。東京からそんなに遠くない距離にある山梨県なのに、「地元意識」が今でも強い。祖父が開業した昭和初期なら、これがどの程度のものであったかは想像するのは簡単なことだ。母方の祖母が生まれ育ったのは、山梨県甲府市。祖母は、山梨県生まれということでは、「地元の人」だけれども、勝沼の生まれではないから、「勝沼の地元の人」ではないのだ。そんな二人が結婚して歯科医院を開業すると、地元意識の強い人からイヤなことを言われるという意識は、「山梨県人」で祖母の方が強かったのかもしれない。しかし、そんなことよりを苦にするよりも、当時歯科医師が1人もいないから、開業してはどうか?という薦めで、勝沼で開業することを決めた祖父は、誠実な態度で患者さんに接すれば、心ないことを言う人はいなくなる、そう考えていたに違いないし、祖母も同じように考えて祖父に協力していたに違いない。

地元出身の人の中に必ず噂好きな人がいて、こういうタイプの人が「地元出身出はない人」を傷つけるような噂を流す、さらに、このような噂を流す人に限って、「地元の有力者」などと言われるような人だから、始末が悪い。

「事件」の発端も、この「地元の有力者」が知りあいに話したことが発端だったらしい。それは、次のようなこと。

「東京の歯科大だかなんだかを出てるって話だが、自分の生まれたところで開業できんような、『きたりもん』」は、どうにも信用できん。」

余談ですが、この「きたりもん」というのは、「よそ者」という意味。このことを話てくれたときの母の話ぶりから推測するに、かなり差別的な意味が強い感じの言葉 。それも、どうも、山梨県限定の方言のようなのだ。この記事を書く前に、

まさかないよねぇ、インターネット上には、調べても「きたりもん」でひっかかってくるページなんて。。。

と、思いつつ、この単語で検索をかけたところ予想に反して、ヒット。何件か該当ページが表示された。上位にあるページは、山梨県関連。。。。。

うげっ。

まだ、死語になっていないなんて。。。


話を戻します。

この地元「情報局」による「きたりもん」発言が、巡り巡って祖母の耳に入ってしまった。

これを聞いた祖母は、

「患者さんで何年も治療もしてるのに、まだ、『きたりもん』だなんて!」と、悔し涙。

でも、祖母は、悔し涙を流して我慢するような人ではなかった。今よりも書類を取るのが大変な時代であっただろうに、祖父の分と自分の分の、今で言う戸籍抄本のコピーを取り寄せ、さらに、それに祖父が取得した歯科医師免許も持参して「放送局」に乗り込み、

「主人もわたしも、こういう生まれです。歯科医師免許はこれです。どちらとも、よく、ご覧になってください。」と、問題発言を人の目の前につきつけたそうな。

これらを見た後、問題発言をした人は平謝り。これ以来二度と、祖父を『きたりもん』と呼ぶことはなくなった。




祖父が「きたりもん」と呼ばれなくなって、60年以上経っているのとうのに、以前にも書いたが、今のこの国では首相自らが「格差」を肯定する発言をしてはばからないし、電車の吊り広告の週刊誌の見出しには、「負け犬」や、「負け組」という、人を差別する単語だらけ。

こういう差別語を、まず、減らす努力することから始めないと、六ヶ所核燃料再処理工場の稼働を止めることや、第二再処理工場の建設を止めることができない、と、痛感する。

理不尽なことに対しては、例えば、「(もう、お金をもらってしまったから)仕方がない」などと言って自分に甘えて逃げないで、祖母が行動を起こしたように、正当な証拠を相手つきつけて、相手を納得させないと道が開けない。
posted by yoshikoskz at 20:53| パリ ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 言語 | 更新情報をチェックする

2006年05月15日

「智を愛さない人間」がつけた「安全」というtagをはずそう!

核信仰は救われない久保寺昭子名誉教授の正体には、「安全神話の宣伝」内容が書かれているだけではなく、

>安全性に自信があるのなら、なぜ、まともに話し合いをしないのだ!

で締めくくられているので、いい機会なので書いておこう。



わたしを取り巻くさまざまな人たちの繋がりで、スペイン人の神父さんと出会い、それまでは知ることがなかった研究分野に進むこととなり、さらに、この神父さんに Godfaherになってもらいカトリック信者になってしまった。そう、わたしは、既に「信者」。

誤解を恐れず言ってしまうと、ラモス瑠偉にそっくりなヒゲが似合うおじさん。あの方は、わたしにとっての「神」ではない感じ90%。わたしにとっての「神」は、私の中に存在する(と、今のところ感じる)でも、その存在は「あの方」ではないなぁという感じ。こういうとんでもない信者なので、「別の意味」で誰かがわたしを「○○信者」と呼んだとしても、どうということもない。

修士課程1年目の必修基礎科目に、この神父さんである教授が担当する講義があった。同級生に中国からの留学生が一人いたが、新学期の最初の講義のとき名簿を見てすぐ、中国籍の学生がいることを理解した神父さんであるこの教授は、すぐに、次のような質問をした。

「英語の、philosphopy、智を愛するという意味ね、もとは、Greek、ギリシャ語ね。これを漢字で『哲学』と書くのは知っているが、日本人に何度聞いても、『哲』の意味がよくわからない。中国語では何という意味?」

中国人留学生が即答して曰く、

「『哲』は、『口』と『折』からできていますね。口を折る、というのは英語の"debate"と同じ意味です。智を愛する人たちは、debateが好きですね。ギリシャ人もね。だから、philosphopyを『哲学』というのは、とても、いい言い方です。」

この神父さんである教授は、学歴としては、神学(哲学を含む)と言語学の2つ博士号を持っている。しかしながら、わたしが尊敬する理由は言うまでもなく、博士号2つという学歴では全然なく、柔軟で広い心と聖職者・研究者として真摯な態度で、わたしたちに接する人だからだ。

カトリック信者になるには、1年程度、「公教要理」(あるいはカトリック要理」)というキリスト教についての「お勉強」をしなければならない。
この「お勉強」のときの雑談で、この神父さんの子供の頃の話もよく聞いた。

この神父さんの家庭は、決して裕福ではないが敬虔なカトリック信者の家庭だった。男4人、女1人のきょうだいのうち、長男を除いてすべてが聖職者になっている。この神父さんは次男。きょうだいんの中でもこの神父さんは、子供の頃から学校の成績がよかったので、町の教会の神父さんの薦めで15歳で、わたしの出身大学の母体の修道会へ入ることになった。このとき、この神父さんのお母さんは、大泣きしたそうだ。なぜなら、町の教会で修業をしながら神父になるなら、この教会にミサに行けば、息子の顔くらいは見ることができるが、(優秀だったばっかりに)遠くの修道会(ローマ)に入るなんて、一生息子に会えない、と。事実、アメリカで博士号を取るまで、お母さんに会いに帰ることは許されなかったそうだ。

修道会時代も語学の成績も抜群であっただろういうことは、この神父さんが日本へ派遣されたことから解る。この神父さんが、最初に日本に派遣されたのは、1960年。当時は、住んでいた修道会から、外国人神父対象のこの修道会が運営している日本語研修センターまでの電車賃が往復20円の時代。毎朝修道会から支給される20円で切符を買って電車に乗り、研修センターへ行き、1日15時間集中的に日本語の勉強をしていたそうだ。3ヶ月後、無事研修を終えると、次の日からすぐ、わたしの出身大学で日本人の学生にスペイン語を教えたそうだ。

自分の生まれ育った国で、ちょっと勉強ができるという程度の理由だけで研究者になってしまえるのとは、聖職者になるという部分を差し引いても、やはり、厳しさが違う。




この国では、異なった考えを持った人たちと議論を重ね、その過程でお互いを理解し合うということをしない。その代わりにやることといったら、異なった考えを持つ人たちに「自分たちとは違う」ということを強調するためだけの目的で、例えば、「○○信仰」とか「○○信者」「○○主義」というtagをつける。tagをつけさえすれば、自分たちと「違う人」が、このtagですぐに判別できるから自分たちは安泰。そう信じて疑わない。なぜ、こういう心理構造が生まれたのかを考えるき、現時点での結論は、明治時代以降の天皇を頂点に置いた「富国強兵」達成のための「全体主義」が、島国という環境と相まって成功した結果であるということ。地続きで、さまざまな人たちが行き交うヨーロッパでは、極端なことを言えば、目の前にいる人間が敵か見方かわからない。だから、それを知るために、まず、言葉を交わさなければ生き延びることができない。このような状況下では、自分と相手の「違い」は、当然のこととして受け入れられる。その上で、理解しあうために話し合う。これは、「みんな一緒だよねぇ、仲間だよねぇ、仲間がいっぱいいれば何をやったって怖くないよねぇ」的な、全体主義保持手段として「あの人たちは違うよ、変な人たちなんだよ」というtagをつけるこの国流のやり方とは、それこそ、「大違い」だ。

久保寺昭子東京理科大学名誉教授の言う「安全」も、自分が安泰いられるためのtag=お題目にすぎず、研究者として自信、言い換えれば、研究に対する真摯な態度に裏打ちされた首尾一貫した論理性は、どこを読んでも見つからない。この程度の研究者が言う、「安全」を拠所にして核燃料再処理工場を稼働させるなんて、前にも書いたが、国家的犯罪。この程度の研究者が貼り付けた「安全」という tagなんかすぐに取ってしまおう。そのためには、わたしたちが、「智を愛する人間」だということを、機会あるごとに示していくことが有効な手段。
posted by yoshikoskz at 19:29| パリ ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 言語 | 更新情報をチェックする

2006年05月06日

Tense & Ecology

現代日本語においてはTense(時制)がなくなってしまった。
だから、ecologyに対する感覚が薄いのかな、と、最近強く感じるようになった。

何語であっても、言語において発達してるものは、その言語の使い手にとって、欠くことがないもの。例えば、Inuktitutでは、日本語で「雪」にあたる単語のveriationが多いのは有名。それは、 彼(女)たちにとっては、「雪」は、生死に関わる自然現象だからだ。

日本語にも、かつては、Tenseがあった。

夏きぬ。

がその一例。動詞「来る」+完了の助動詞 「ぬ」という形で「完了」を表していた。

日本語にも完了というTenseがあった時代の日本人には、「エコ」だの「リサイクル」だのと取り立てて言わなくても、そんなことは生活の一部として当然のように行っていたに違いない。



もう、18年前に亡くなったが、5月5日は母方の祖母の誕生日。彼女は1906年生まれだから、もし、生きていたら、ことし満100歳になる。

わたしの一番の祖母との思い出は、祖母が還暦のお祝いの年の5月5日の夜、わたしの母が七五三の時に着た古代紫の着物を作り直した掛け布団をかけて祖母と一緒に寝たこと。わたしの母は、祖母がこの着物や弟たちのための鯉幟(これは、染め直しして、座布団になっている)で、布団や座布団を作ることに不満で、特に、この自分の七五三のときの着物は、未だに、

「着物のまま残しておいてほしかったのにぃ。。。」

と、文句を言うようなヒト。わたしは、それを聞くたび、母に、

「でも、わたしは、あの布団をかけておばあちゃんと寝たんだもん!すごくカッコいいと思うのよね、エコなおばあちゃんって。」

と言うことにしている。



過去を表す語尾が「た」しか、今の日本語にはない。こんな一音しかないのなら、この「音」さえ、あと20年くらいで消滅してしまうのではないかと感じている。


わたしが、日本語を

めんどう

と、感じることがあるのはこの点が、かなり大きい。英語でさえ、Tenseといえば、現在完了、過去、過去完了しかTenseがない。フランス語やスペイン語、イタリア語といったロマンス語系言語とは大違い。

余談だが、英語には、「未来形」というTenseが存在しない。
(個人的に)英語がダサいと感じるのは、この点。

英語で、未来を表すには、

will +動詞の原形

あるいは

be going to + 動詞の原形


どちらにしても使う動詞は(bare-form)原形。

それでも前述のように、英語には「完了」を表すTenseが残っているから、まだ、「時間感覚」に、ほんのわずかではあるが敏感な部分が言語表現として残っていると言えるが。

話を戻すと、この「時間感覚」を今朝(というか、厳密には深夜だけども)改めて感じたのは、今回も、また、RSS Reader check中に、ひっかかりの最新記事から飛んだ renew usだった。



今週の可愛い柑橘娘(というより、まだ、柑橘赤ちゃんという感じなので)、愛おしすぎて食べるのが惜しい、黄金柑。
summerorange.JPG

わたしが「夏」を感じるには、こういう、柑橘娘たちが野菜箱に入ってきはじめたときだ。

そのまま食べるのも勿論だけれど、ドレッシングや、混ぜお寿司などに使うと、お酢とは違うさわやかな味になるからだ。

衣替えもだいたい終わったところなので、シャンプーバーも柑橘系に変えよう。
posted by yoshikoskz at 15:29| パリ ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 言語 | 更新情報をチェックする

2006年02月19日

masala chai

彼女と初めて会ったとき、不思議な感じだった。彼女とは幼なじみで、ずっと子供の頃から知っているような感じがしたのだ。彼女はドイツ生まれで、縁あって日本人男性と結婚。この国で仕事をしている。

知りあってから約3年後、一緒にサンフランシスコへ行き、さらに、その後、彼女の家に押し掛けて泊まるようになった。

彼女の家に泊まったとき、いろいろな話をするうちに、イギリス人の話になってしまった。話ながら解ったが、「悪い人」ではないのだが、杓子定袖で理屈っぽいイギリス人に遭遇した経験を持っているため、彼女もわたしもイギリス人はあまり好きになれないのだった。それで、やはり、食べ物の話になり、わたしは、つい、言ってしまった。

「pound cakeは、小麦粉も、バターも、砂糖も、1 poundづつで作れるようになっているから、アタマ使わないで食べたいときに反射的に焼けるからね、かろうじて許せるんだけど。『milk first!』ってウルサイ割には、イギリス式milk teaは美味しくないっ!美味しいのは、masala chai!!

わたしが、こう言い終わると、Mさんは笑いを堪えつつ台所へ行き、食器棚から手に取ったものを、

「これでしょ!」

と言って、わたしに見せた。それが何だかすぐに解ったので

やっぱり、そうだよね!!

それから、2人で1分間爆笑。

彼女が手にしていたのは、Bodumのtea pressだった。

「飲むときは、たくさん飲むからね」

と彼女はニコニコしていた。






それから6ヶ月くらい経って、わたしは、電車内で女子中学生たちが、「ロイヤルミルクティー」と言うのを耳にした。「Japlishぽい」と直感したものの、英語は母語ではないから念のため辞書を引くが、引いた範囲の辞書には該当項目なし。そこで、後日、後輩に聞いてみると、

「ミルクたっぷりの激甘紅茶飲料ってとこですかね。ここの売店の自販機にもありますよ、缶入りのヤツ。」

はぁ?なに??それ????


以来、未だに、わたしは「ロイヤルミルクティー」の語源を知らない。でも、他の単語と違い、この語源をあまり知りたいとは思わない。多分、Japlishだろうし、そうでないにしても命名者の無神経さがそのまま名称になったように感じるからだ。

ちょっと余談だが、無神経な名称と言えば、Mさんが、わたしと親しくなれた理由というのが、彼女曰く、

「わたしが何も言わなくても、最初からわたしを名字に「さん」付けで呼んでくれたから。」


日本語の名字だし、この国の呼び方は名字に「さん」だから、何も考えなくてそのまま。。。

と、遠慮がちに答えると、彼女は、

「それがいいの!いるのよ、名前に「さん」で呼ぶ同僚が!カンチガイ!!」

「カンチガイ」と言った部分は、彼女にしては、かなり、強い口調だったので、こんなふうに呼ばれることは、彼女には相当苦痛だったのだろう。

わたしは、深くモノを考えないタチなので、日本人からは、「無神経」とか「配慮が足りない」と、よく言われるが、彼女との関係ではこれがpositiveな方へ働いた。これも、不思議。




「勝手にひとりでプチ・インドフェア@自宅」は、どうも、無事開催されたようなのだが、(詳細は明日以降に書くつもり)その余波でウチの台所のシンクは、洗い物たちで一杯!(それなのに日記なんか書いてて片づくの?!)

当然、「勝手にひとりでプチ・インドフェア@自宅」のしめくくりは、cinnamonちょい多めのmasala chai。Bodumのtea pressはないが、生意気な行平鍋と、耐熱mesure cupと特大茶漉があるからでそれで作ったのだ(ここは、バカボンパパの口調で読むのだ)。
posted by yoshikoskz at 23:46| パリ ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 言語 | 更新情報をチェックする

2006年01月22日

ICプレーヤー故障多発で考える、何のための入試、誰のための公平?

わたしの知る範囲だけでも、今回のリスニングテストで使われるICプレーヤーの故障や不具合の懸念の声は強くあった。それが、懸念だけに終わらず事実になってしまった(加えて5年ぶりの「大雪」で東京は寒い!!!)ので、久しぶりにちょっと怒っている。

以下の記事を読んでほしい。

<センター試験>各地でリスニングトラブル383人以上も

英語リスニング、故障などで425人再テスト

英語リスニングテストのページのニュースでは、スピーカーを使って試験会場に問題音声を流した場合、「スピーカーに近い席では、はっきり聞くことができます。遠い席ですと、ちょっと聞きにくい場合が出てきます。そこで一人ひとりがイヤホンを使ってはっきり聞けるように、このICプレーヤーを導入」と言っている。この説明からすると、大学入試センターが英語リスニング試験にICプレーヤーを導入したのは、聞き取る場合の不公平を排除する目的と考えてよいだろう。

しかし、現実に今回全国のテスト会場で起こったことは、ICプレーヤーの故障などのトラブルよって正規のテスト時間にはテストが受けられず、追試を受けなければならない学生が多数いた、ということ。

追試を受けなければならなかった学生と、そうでない学生の間には不公平はないのか?!!

「スピーカーに近い席では、はっきり聞くことができます。遠い席ですと、ちょっと聞きにくい場合が出てきます。そこで一人ひとりがイヤホンを使ってはっきり聞けるように、このICプレーヤーを導入」のような偽善的「公平」を振りかざすのは、いい加減で止めなさい!!

(わたしが学生だった頃からすでにそうであったが)何のための入試なのか、誰のために公平であるべきか、ということには構いなし。目先の「利益」だけしか考えない省庁や官僚の犠牲になる学生たちは、気の毒すぎる。
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2006年01月20日

センター入試英語リスニング問題導入で考えたこと

明日からセンター入試
今回から英語リスニングテストが導入される。個人的に、この国の「英語学習コンプレックス」を改善する早道は、公立小学校においても、小学校から英語の授業を導入することでもなく、センター入試でこのようなリスニングテストを実施することでもなく、むしろ、高校、大学入試から英語をはずすことだと考えているのだが、このような考えは、この国の教育政策とは、全く逆方向のようだ。



中学生の頃から、英語の定期試験問題の予想屋や、英語が苦手な同級生の宿題の手伝いをし、気がつけば今もその延長のようなことをやっている。わたしの経験した範囲に限定した話だが、英語が好き、あるいは実際成績がよい人と、そうでない人にはある共通性が見られる。

英語が好き、英語が好き、あるいは実際成績がよい人は、母語の読解力、文章力が高く、算数/数学も得意で、大学受験までこれが持続している。これに対して、英語が苦手な人は、母語の読解力、文章力が「甘い」。特に、文章を書く場合、格助詞や指示語の使い方で混乱する傾向が見られる。加えて、辞書を引くのに慣れてないという傾向も見られる。

言語獲得の観点からすると、英語の母語話者の獲得(大人と同程度の理解力と表現力が身に付く)年齢が8歳前後であるに対し、日本語母語獲得年齢は11歳前後であるとされている。このことから、日本語の母語獲得は、少なくとも、英語より困難で、時間がかかるということが言える(ちなみに、ロシア語母語話者の場合は13歳前後とされている)。つまり、母語環境にいるからといって、それだけで言語獲得ができるほど、日本語は簡単な言語ではないのだ。さらに、母語が何語であれ、抽象的な思考には、母語を使う。だから、母語獲得が中途半端なまま、外国語学習をはじめると、外国語学習で挫折してしまう。それだけでなく、外国語学習より抽象的は思考が要求される数学などの理科系科目も、伸び悩むことになりかねない。

だから、小学校では英語導入より、日本語を読んで何が書かれているのか、文章を書いた人が伝えたいことは何かを正確に読み取ることと、自分の感じたこと、考えたことを自分以外の人に正確に日本語で書くことを重視すること、さらに、わからない単語や表現があったら、まわりの大人に聞く前に、まず、自分で辞書を引いて、何が書いてあるか注意深く読む習慣をつけることが、その後の英語学習でも有効なのだ。

余談だが、わたしが学生だった頃から既にいたけれど、最近は、ほとんどの学生が電子辞書を持っているものの、辞書を「読む」という感覚が薄いためか、単語を調べるとき、辞書のせいぜい2番目くらいの意味の定義しか見ないようで、これらの定義にあうように、自分勝手に強引な日本語訳をつくりあげる人が増えている。

わたしが学生だった頃、同じクラスの男子がつくりあげた日本語訳に「ダイエット協議会」っていうのがあったっけ、と、未だに覚えているほど、これを聞いたときのショックは大きかった(原文は、"The Conference of Diet")。この男子、実はアメリカの高校を卒業していて、bilingualではあったのですが、多分、アメリカの高校へ行く以前に、辞書を引く習慣が身についていなかったのではないかと。


話を戻します。

この国における英語コンプレックス、言い換えると、「国際化」幻想の原因は何か?と考えるとき、頭に浮かぶのは、

「この国が(太平洋戦争敗戦後)英語を母語とする国の植民地にならなかったことは、幸せなことなのか、否か?」

という問いだ。

「靖国神社問題」や「拉致問題」で、外交下手を通り越して、頑なになってしまっているこの国の政府の外交政策をみるにつけ、この問を自問自答する機会が増えている。さらに、この国で早期英語教育導入に熱心な大人たちの本音が、「この国が(太平洋戦争敗戦後)英語を母語とする国の植民地にならなかったことが、この国での英語学習の延び悩みの原因」なのではないか、というわたしの考えが、少々過剰な危惧であってほしいと願うばかり。



明日は、東京でも朝から雪が降るかもしれないという天気予報のようですが、センター入試を受験する皆さんが、充分力を発揮できますように。
かつて受験生だったわたしは微力ながら祈っています。

You can do it, becsuse you BELIEVE you can do it!
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2005年12月12日

日本語ってめんどうPart 2

きょうは、完全休日。
ということは、普段はできない雑用をこなす日。
きょうやらなければならないことは3つ。
銀行への問い合わせと、プロバイダ変更関連の問い合わせ&手続き。



来年1月1日に合併が決まった某銀行は、ウチの家賃の振込み先。多分、家主さんから1月以降に連絡があるはずだが、それ以前に、わたしが合併に伴う変更事項について知っておかなければ、と感じたので、まず、合併が決まっている銀行のサポートダイアルに電話。対応した男性が教えてくれたことは、ほんとうにマニュアル通りのことだけ。次に、わたしがメインで使っている銀行に問い合わせる。結局、対応してくれた女性は3人。わたしの疑問が解決したのは、この3人目の人の説明を聞いたときだったが、この女性の口調は怖かった。多分、彼女の頭の中には、「合併する銀行は、ウチの銀行ではないのに。。。」ということがあるのだろう。わたしは、それは理解していると説明した上で、「振込みをお宅の銀行のネットバンキングを使用して行うので。。。」と質問したのだけれども。わたしの疑問は解けたので、怖かったことは忘れよう。

銀行の件が済んだところで、今度契約するプロバイダーから電話。実は、先週の金曜日、坂本龍一のLiveに出かける直前に、このプロバイダーから1度電話がかかってきたのだが、きょう改めて連絡してくれるように頼んであったのだ。プロバイダーからの連絡は、回線切り替え日工事日決定ということ。でも、電話をくれた女性は、 modemの配送日がいつなのかに関しては、わたしが質問しなければ教えてくれなかった。これも、わたしが聞いて教えてくれたのだから、よしとしよう。

さて、次は、今使っているプロバイダーへコース変更の連絡の電話。電話する前に、プロバイダーのHPで、変更したいコースのページが見つからなかったので、そのことを質問しなければ、と思いながら電話をかける。対応してくれた女性が、わたしの本人確認を終えたところで、

これまで、ADSLコースを利用していたのですが、今度、別のプロバイダーに変更することになりまして。
でも、メールアドレスは、継続して使用したいので、こういう場合に適したコースは何になりますでしょうか?

と切りだすと、対応してくれた女性は、

「ご利用いただきましてありがとうございます。」と言った後すぐに、わたしに最適なコース名と、そのコースの説明が載ったページのアドレスを教えてくれた。電話片手に、アドレスを打ち込むと、そのページが現れた。(月額料金の安さにちょっとびっくり)。

今回の手続き変更は、書面での手続きになるが、郵送だけでなくFaxでも手続きできるということなので、Faxで書類を送付してもらうことに決めた。3分ほどで必要書類き、すぐ、必要事項を記入&捺印してFaxで返送したら、3時間程度で「コース変更完了メール」が届いた。



きょう、わたしが電話で話をしたところの対応は、どこも、マニュアルがあり顧客であるこちらと対応したわけだけれど、それでも、気分よく電話できたのは、最後の今使っているプロバイダーの女性とのやりとり。彼女は、こちらの要求を的確に理解し、顧客であるこちらが何をすへきか正確に伝えた。受け答えに曖昧さや誤りがないだけでなく、こちらに威圧感を与えるような言い方をしていない。

以前にも書いたが、日本語は、欧米で使われている言語に比べると、はるかに、文脈に依存して成り立つ言語。さらに、敬語(これはハングルにもある)は、社会的な地位や関係で表現が変わるシステム。だから、このようなシステムを持たない言語を母語とする人が、この国に来た場合、communicationに足るほど日本語ができるようになるのは、大変なことだ。母語話者のわたしだって、日本語を使うのは、本当に厄介なんだもの。でも、わたしは、日本語を母語としない人に、「日本語では○○言うほうが好まれる」というような教え方を、自分が教える立場であったときもしたことがない。使ってしまった方が簡単に教えられるけれども。
「日本語では○○」と定義した瞬間に、日本語が他の言語とは違う「特殊な言語」になってしまう感じがするのが好きではないからだ。欧米系の言語とは異なる点が多いことは事実だけれど、日本語だって1つの言語にすぎない。日本語を母語としない人の日本語がヘタでも、英語を母語としない人の英語がヘタでもそのヘタさの中に、相手を思いやる気持ちが込められていいるかいないかはわかるものなのだ。それをわかろうとしないで、「外国人だから」と、こちらが相手に心を開かない方がcommunicationにとっての弊害は大きい。
posted by yoshikoskz at 20:49| パリ 🌁| Comment(2) | TrackBack(0) | 言語 | 更新情報をチェックする